ここは?
小峰城跡は、福島県白河市に位置する歴史的な城跡です。この城は、阿武隈川南岸に連なる丘陵とその南側に広がる段丘地を巧みに利用して築かれており、本丸の標高は370メートル、二之丸との比高は約15メートルとなっています。
城山公園
白河市郭内に位置する歴史と自然が調和した憩いの公園。
園内には「白河バラ園」があり、世界各国の品種を含む約300種4,000株のバラが咲き誇り、訪れる人々を華やかな香りと色彩で魅了します。また、郷土の歴史を学べる「白河集古苑」や、江戸時代の風格を今に伝える「小峰城三重櫓」もあり、歴史散策の場としても親しまれています。
春には約180本の桜が公園全体を彩り、満開の桜と城郭が織りなす風景は、まさに圧巻の美しさ。花見シーズンには多くの人々が訪れ、賑わいを見せます。四季折々の自然と歴史が共存するこの公園は、市民の憩いの場であり、観光客にとっても魅力的なスポットとなっています。
江戸時代の寛永9年(1632年)、初代白河藩主・丹羽長重によって大改修が施された奥州関門の名城、小峰城。現在では、復元された三重櫓や、東日本大震災による崩落から見事に復旧を遂げた端正な石垣が、春には咲き誇る桜と調和し、美しい景観を生み出しています。
現在では、歴史を伝える貴重な文化財として、また市のシンボルとして多くの人々に親しまれ、四季折々の風情を楽しめる名所となっています。
城山公園の風景をパノラマ写真にしてみました。良かったら見て下さい。
パノラマ写真
小峰城歴史館
さらに、平成31年(2019年)4月には、小峰城の歴史や魅力をより深く学べるガイダンス施設が誕生しました。
この施設では、体感型の展示を通じて楽しく歴史を学ぶことができ、特に注目のVRシアターでは、CGで再現された江戸時代の小峰城が270度の3面スクリーンに映し出され、まるで当時の城内にいるかのような没入体験が可能です。
また、展示室には精巧なジオラマが設置され、VR望遠鏡を通して四季折々の小峰城の姿を楽しむことができます。さらに、貴重な古文書や美術工芸品、歴代城主の紹介も展示されており、訪れる人々にとって貴重な歴史学習の場となっています。
小峰城跡
起源については、「白河風土記」によれば、興国から正平年間(1340~1369)にかけて、当時この地を治めていた結城宗広の嫡男である親朝が築城したとされる。元来、結城氏の本拠は小峰城の東約3キロメートルに位置する白川城であったが、永正年間(1504~1520)に発生した一族の内紛を契機に、小峰城が新たな拠点として選ばれたと考えられている。
時代が下り、天正18年(1590)には、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、結城氏は改易される。その後、小峰城は会津領の支城として機能し、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行といった領主の支配を経ながら、城代が置かれ、城郭の整備が進められた。慶長年間には、梯郭式平山城としての城の原型が形成され、現在の姿の礎が築かれた。
寛永4年(1627)に白河藩主となった丹羽長重は、大規模な改修を実施し、寛永9年(1632)に完成させた。この改修により、本丸・二之丸は総石垣で固められ、三之丸の門周辺にも石垣が築かれた。特に、城郭全体に多用された石垣が、小峰城の特徴的な景観を形作っている。
城の全体的な形状は、やや不規則な五角形を呈しており、現在は外堀より内側の約54万平方メートルが埋蔵文化財包蔵地、本丸・二之丸を含む約12万平方メートルが史跡として指定されている。
江戸時代には、丹羽家の後、榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家など、徳川家と縁の深い親藩や譜代大名が城主を務め、「奥州の抑え」としての重要な役割を果たした。しかし、慶応3年(1867)に阿部家が棚倉に移封された後は幕府の直轄地となり、二本松藩(丹羽家)が管理を行った。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、小峰城は白河口の戦いの舞台となり、激戦の末に焼失し、落城した。明治時代に入ると、城郭の大部分は民間へ払い下げられ、本丸の敷地は陸軍省の管理下に置かれたのち、明治26年(1893)に白河町へと譲渡された。
近代化の波の中で、二之丸や三之丸の城郭遺構は埋め立てられ、農地や官公庁舎、住宅地として利用されることとなった。三之丸には明治20年(1887)に東北本線が敷設され、駅が設置されるなど、城の跡地は近代都市・白河の形成に寄与していった。


昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心とした都市公園としての整備が進められ、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の成果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元された。これにより、小峰城はかつての威風を取り戻し、今もなお歴史を伝える貴重な遺構として多くの人々に親しまれている。
白河小峰城 前御門
前御門は「表門」とも呼ばれ、その名のとおり本丸の正門としての役割を果たし、裏門にあたる桜之門とともに、小峰城の防備を固める重要な存在でした。城内における主要な防衛ラインの一角を担い、三重櫓から前御門、多門櫓、桜之門へと続く一連の門と橋の連携構造の中心的な位置を占めています。
白くてキレイな門です。
その構造は、城郭建築の中でも防御性に優れた「櫓門」の形式を採用しており、堅牢な石垣の上に櫓を架ける形で築かれました。さらに、平櫓の一種である多門櫓と連続することで、より強固な守りを実現していました。
戊辰戦争で焼失したものの、長い歳月を経て、その歴史的価値が再認識され、平成6年(1994年)に江戸時代の姿を忠実に再現した木造復元が行われました。現在では、小峰城の往時の姿を伝える貴重な遺構として、多くの人々に親しまれています。
白河小峰城 三重櫓
「櫓」は、「矢倉」や「矢蔵」とも表記され、もともとは武器や食糧の貯蔵、防御のために築かれた建造物です。また、敵の動きを監視する物見櫓としての役割も果たし、城郭の防衛において重要な存在でした。
小峰城の象徴ともいえる三重櫓は、本丸の北東隅にそびえる三層三階の櫓で、城の威容を示すシンボル的な建築物となっています。その構造は、高さ約14メートル、一階部分の広さは約12メートル四方、二階は約4メートル四方と、上層に向かうにつれて小さくなる特徴的な造りです。外壁は、黒く塗られた木板を張り巡らせた「下見板張(したみいたばり)」で保護され、戦国時代の実戦的な城郭建築の名残を感じさせます。
また櫓の中は見学する事もできます。
復元されたお城によくある中身はコンクリート製という様子ではなく、当時の作りを再現しています。
この時はコロナの関係で登れませんでしたが2階より上に登る事も。
この三重櫓は、戊辰戦争による焼失後、長らくその姿を消していましたが、平成3年(1991年)に、福島県の重要文化財「白河城御櫓絵図」や発掘調査の成果をもとに、木造で忠実に復元されました。現在では、小峰城の歴史と文化を伝える貴重な建築として、多くの人々に親しまれています。
また、屋根には13,000枚以上の瓦が使用され、堂々たる風格を醸し出しています。さらに、天守の最上部を飾るしゃちほこは高さ約1.2メートルにも及び、城の格式を象徴する存在となっています。
小峰城跡の場所
駐車場